拜託日文高手幫我將以下文章翻成中文
感謝!!
おそらく生涯、忘れえないであろうひとつの思い出がある。昭和二十五年----つまり戦争が終って五年後の六月、私たち四、五人の学生は仏蘭西船の四等に乗ってマルセイユに向かった。留学のためである。
まだ日本が戦争犯罪国に扱われていた時代で、どこの国とも国交が恢復しておらず、もちろん、巴里にもロンドンにもワシントンにも大使館はなかった。
私たちの乗った船は香港をへてフィリピンのマニラに向かった。マニラ湾に入った時はちょうど夕方だったが、燃えるような落日に湾は薔薇色に染まっていた。そしてたくさんの日本輸送船が海に沈没して、そのマストが疎らな林のように海面に突き出ていた。
乗客たちは甲板に出て、戦争のむざんな跡を眺めていたが、やがて近づいたマニラ市は東京とおなじように焼けただれていた。船は湾の途中で突然、停止した。アナウンスがあって日本人の乗客だけ甲板に整列せよという。
私たち甲板に並ぶと、フィリピンの警官たちを乗せたモーター˙ボートが近づき、武装した彼等が乗船してきた。
彼等は憎しみのこもった眼で私たちを睨みつけ、パスポートを検閲した。その時のこの人たちの表情で、私たちはフィリピン人が日本人をどれほど恨んでいるかを骨身にしみるほど思い知らされた。
船が波止場に停泊するとフィリピン人たちの怒号がきこえた。「ヒトロコシ」「バカヤロオ」
仏蘭西船の船長は我々が絶対に船倉にかくれていることを命じた。甲板にのぼれば殺されるかもしれぬ、というのである。
六月のマニラのすさまじい暑さのなかで私たちは、荷をつむクレーンの音を一日中ききながら、汗まみれになり二日間をすごした。肉体的にも精神的にもくるしい二日間だった。
こんな昔の思い出を書くのは理由がある。というのは、つい、この間、偶然、夜につけたテレビで私はひとつのルポルタージュを見たからである。
そのルポルタージュは四国の山のなかの、小さな村の話だった。
この村では娘が少なく青年がが多い。したがって青年たちには嫁になってくれる相手がない。困った村長さんはフィリピンのある村に青年たちを連れていき、その村の娘さんたちと集団見合いをさせた。そして、三、四組の婚約が成立した。
花嫁になる娘は夫につれられて四国にわたり、そしてそこで村あげての結婚式を行った。もちろん、正式のすばらしい結婚式である。
その様子をテレビカメラは追ってゆく。テレビにありがちなやらせはない。日本語もほとんどできず、頼る者といえば夫しかいない花嫁たちは、それでも懸命に言葉をおぼえ、農作業や店を手伝い、クリスマスには夫を引っ張ってカトリック教会のミサに出かける。
冬がくる。フィリピン生まれの嫁たちにはじめて見る雪がふる。そしてやがて彼女たちに赤ちゃんが生まれる。
テレビ局の人は彼女たちの幸福な生活とメッセージを撮影したフィルムを持ってフィリピンで案じている両親、姉弟たちのところに行く。そしてそのフィルムを見た肉親たちの嬉しそうな笑顔もうつす。
それを見ながら何とも言えぬ幸福感に私は包まれた。フィリピン生まれの花嫁をいたわる若い素朴な夫のやさしさにも心うたれた。そして同時に昭和二十五年の夏の、辛かった思い出が痛いほど心に甦った。
ここまでくるのに長い長い歳月がかかった。