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生きること考えること 中村雄二郎
この世(よ)に生まれてきたものとして、わたしたちはだれでも、生涯を生きなければならない。境遇や環境や条件は違っていても、皆、自分の一生を生きなければならない。生まれてきた以上、死ぬまでは生きなければならない。生まれてきたのは自分の意志でなくとも、生きるのは自分が生きなければならない。これは不合理でも、認めないわけにはいかない出発点だろう。また、わたしたちは、生きていく上で何も思わず、何も考えないわけにはいかない。まだ幼かったり、あるいはただ漠然と生きたり、何かに心を奪われて夢中に生きたりして、特にものを考えないで過ごす時期もあるだろう。しかし、そういう時期があっても、それがいつまでも続くわけではないし、それに、特にものを考えていなかったように思われた時期でも、後で振り返ってみると、その時々に断片的には多くのことを感じ、思っていたことに気が付くものだ。無念無想という言葉もあるが、これは、思慮や整った考え方に欠けていることを、でなければ私心や妄念を去った状態を言うのであって、何も考えないということではない。
だから、改めて思索とか思考とかと言わずに、思い、考えるということを広くとれば、職業や境遇の区別なくわたしたちの一人一人にとって、思い、考えることと生きることとは、ほとんど切り離すことができない。人間として生きるかぎり、思い、考えることは生きることの一部分であり、人間として生きている活動そのものであるとさえ言える。
このとうに生きることと考えることとが不可分であってみれば、わたしたちはほとんど、よく考えることなしには、よくいきることもあり得ない。およそ考えるのは頭であり、生きるのは体である、などと思ってはならないだろう。また、よく考えるとか、よくいきるとかいうのは、なにも周囲の環境や状況に適応してただうまく考えること、巧みに生きることではないだろう。適応することも、ときには大事である。全く適応を欠付けば生存できないのだから、適応することもよく生きるための条件ではある。しかしそれ以上のものではない。よく考えるとかよく生きるとかいうのは、それ以上に、充実感のうちに積極的に考え、手ごたえのあるかたちでいきることだろう。